市町村・地名の由来
【中濃エリア】
注)市町村再編前の地名も含まれています。
いたどり
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イタドリという草の名前から。
イタドリは山野や川辺に生える多年草で、「虎杖(イタドリ)」と書く。
後世に「板取(イタドリ)」という字を当てた。
明治4年には板取村が誕生した。
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板取
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かに
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古代語のカネ(曲)から転じたもの。
大きく曲がりくねっているカネ川が、いつのまにかカニ川(可児川)となった。
平安時代の記録には、すでに可児郡可児郷とある。
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可児
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かねやま
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江戸時代初期には、「金山」であった。
1656年に、近くに飛騨の金山村があり、まぎらわしいことから、
「豊かさと堅さを兼ねた金山城」という意味を込めて「兼山」という字を当てた。
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兼山
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かみのほ
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津保川(つぼがわ)の上流の村という意味から。
津保川沿いには、上之保村の他に、中之保村、下之保村もあったが、昭和30年に中之保と下之保が武儀村に合併し、
上之保村だけが残った。
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上之保
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かも
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加茂郡の加茂であり、美濃加茂市の加茂である。
その加茂は、古代にこの地を治めていた県主(あがたぬし)の賀茂氏に由来する。
702年の大宝戸籍には「加毛郡」、平安時代の和名抄には「賀茂郡」とあり、古い地名である。
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加茂
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かわべ
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飛騨川の辺りにあることから。
平安時代の「和名抄」には、すでに「川辺郷」と書かれており、室町~戦国時代には「河辺村」であった。
江戸時代には、上川辺、中川辺、下川辺の3村に分かれていたが、明治22年また一つの川辺村になり、
明治30年に川辺町となった。
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川辺
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ぐじょう
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もともとここは、武儀郡であったが、855年(平安時代)に、
武儀群は南北二つに分けられた。
その際、北部を郡の上部ということで郡上郡とした。
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郡上
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さかほぎ
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明治30年の合併で、坂祝神社からとって坂祝村が誕生した。
坂祝という名前が生まれたのは、平安よりずっと前のこと。
加茂山の坂は、険しい崖や崩れやすい坂が多く、歩くと危なかった。そこから、「坂歩危(サカホギ)」となり、
その後、めでたい「坂祝」の字が当てられた。
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坂祝
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しらかわ
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白く美しい川・白川からとった地名。
古代、この地より加子母にいたる一帯は白川郷と呼ばれ、明治22年の合併で東白川村と西白川村が生まれた。
その後、昭和28年に西白川村が白川町となった。
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白川町
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しろとり
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白山信仰の里に伝わる白鳥伝説からきた地名。
室町時代の記録には、すでに白鳥という名が記されており、江戸時代から白鳥村、昭和3年に白鳥町となった。
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白鳥
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せき
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関所があったことから。
位置的に、この辺り畿内と東国を分ける境目であり、東海道から飛騨街道へ通じる道でもあるため、
関所の果たす役割は大きかったと推測される。
室町時代には、すでに関の地名があり、江戸時代には武儀郡関村、明治22年に関町、昭和25年に関市となった。
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関
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たかす
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明治30年に大鷲、鷲見、西洞、鮎立の4村が合併した際、
その辺りが美濃で最も高い土地であり、地名などに「鷲」とつく名が多いという特徴から高鷲村となった。
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高鷲
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とみか
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昭和29年、富田村と加治田村が合併した際、両村の地名から1字ずつとって、富加村が生まれた。
昭和49年には富加町となった。
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富加
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はちまん
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八幡神社からとった地名。
鎌倉時代に山上岳に八幡神社が創建され、その山は八幡山、麓の村は八幡と呼ばれるようになった。
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八幡
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ひがししらわわ
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東の白川村であることから。
西の白川村は昭和28年に白川町となり、東白川村は合併せずそのまま残ったため、現在は西の白川村はなく、
東の白川村だけがある。
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東白川
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しちそう
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昭和30年の合併で、七宗山から地名をとり七宗村が誕生した。
七宗山は、町の東北に連なる七高峰で、どの山にも仏の化身としての神が祀られ、御霊屋(みたまや)となっていることから
名づけられた。
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七宗
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ほらど
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狭くて水の少ない山間という土地柄から。
山間に水が流れているのは谷であるが、水の流れていない山間は「洞」という。
また、「戸」は、戸のたつような狭い場所をさす。
中世に洞戸の地名が生まれ、明治30年の合併で洞戸村が誕生した。
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洞戸
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ミタケ
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ミタケとは清らかな尊さをたたえる呼び名。
可児の大寺山を尊び、その山を御岳(ミタケ)と呼ぶようになったことから、御嵩(ミタケ)が生まれた。
その後、江戸時代には御嵩村、明治22年には御嵩町、昭和30年には近隣の町村を吸収し、大きな御嵩町となった。
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御嵩
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みなみ
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昭和29年に、嵩田村と下川村の合併で誕生した美並の村名は、公募により決められ、3つの意味がある。
一つは「美しく並ぶ村」、もう一つは、郡上郡のいちばん「ミナミにある村」、
最後の一つは、美濃の頭文字とゴロを合わせて「美濃の美並」とした。
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美並
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みの
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美濃和紙の美濃からとった地名。
明治44年、武儀郡の上有知村(こうずちむら)が、美濃和紙の産地としての誇りと、アピールの必要性から
「美濃町」と名づけられた。
昭和29年には、1町6村が合併して美濃市になった。
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美濃
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みのかも
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702年に書かれた古い戸籍には、「御野(みの)国加毛(かも)郡」とあり、
750年には、三野(みぬ)国加茂郡と書かれている。
これが今の美濃加茂につながった。
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美濃加茂
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むぎ
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ここを流れる川の表土が大きくムケて、岩肌がムキだしていたことから、
ムゲやムギといった地名が生まれた。
奈良時代には、ムギ群を「務義」や「武儀」と書いている。
昭和30年に武儀村が誕生し、昭和46年に武儀町となった。
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武儀
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むげがわ
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昭和40年に、それまでの武芸村が、村の中央を流れる「武芸の大川」に敬意を表して、武芸川町となった。
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武芸川
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めいほう
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平成4年、明方村(みょうがたむら)の村名変更で、明るい宝と書いて「明宝」とした。
村おこしのイメージ戦略であったが、中世からある明方村の歴史も考慮して明宝となった。
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明宝
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やおつ
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その昔この辺りには、いくつかの船着き場があり、賑やかな湊町だったことから、706年に八百津と号した。
江戸時代には、細目村という地名で、村の活気は衰退気味であった。
そのため、木曽川の舟運の起点として、多くの川船が集まるのにふさわしい名前が必要になり、八百津という俗称が
町名になった。
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八百津
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やまと
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昭和30年に、西川村、弥富村、山田村の3つの村が合併した際、大きく和して発展することを願い、大和となった。
大和の地名は、住民から募集して、その中から選ばれたもの。
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大和
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わら
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この辺りは葛(クズ)が多く、葛はカズラとも読むので、和良という字を当てた。
和良という地名は、平安時代の「和名抄」にも出てくる古い地名。
明治27年にの隣村合併で和良村が誕生した。
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和良
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参考文献:岐阜県おもしろ地名考 著者:服部真六 発行:岐阜県地名文化研究会